終活~人生を振り返る~

人生いろいろあるから楽しいと思える生き方

#終活#アラ還#楽しい生き方#ポジティブに

21歳の夏、大きな変化

白樺湖で出逢った男性といろいろあった末

ドラマのような展開で遠距離恋愛をすることに

一年近く遠距離恋愛で私は京都から横浜に行くことになる。

電話や手紙時には逢ったり

本音を話せる人、私の内面をわかってくれる人が初めて現れた。

出逢ってすぐのお正月には先輩のス-ツかりて島まで挨拶をしに来てくれた。まだ付き合いも浅いしそんなぁ~と思ったけど私が育った場所をみたかったみたい✨

たまたま父親もいたので一緒にお酒飲んだりして
父親にとても気に入られた。同じ機械系の人だったかもしれない

学生だった私は次の専修科は東京の花を勉強したいという理由で親に了解を得た🎵

そこから編入し東京の花を勉強することに

京都時代と違って現代の部屋に合わせた生け花に刺激を受けた。

姉もその頃には東京にいたので親も少し安心したのかな?

この頃はまだお花の先生になるためお花を楽しんでいた✨

成田空港のVIPの待合室とかにも花生けにいったなぁ

to be continued

#終活#アラ還#楽しい生き方#ポジティブに

21歳の夏、社会人になった友達と部活の陣中見舞いに白樺湖を訪れた。

毎年、夏合宿で朝から晩まで練習した。卒業生となっては少しプライベートも

そこで横浜からきていたグループと出会う

まさかそこで恋ので愛があるとは😅

とはいえ私はその当時お付き合いをしてる人はいたのでなにも考えてなかったがたまたま一緒にボ-トに乗った男性とのちのち恋に落ちる。

一緒に行った彼女がその彼を好きになり、別の人が彼女を好きになりそして別の人が私を好きになり
その後結構大変な展開になる

学生時代も彼女とはいつもう好きだった先輩に告白したら❌彼女はコ-チと付き合いその後なぜかいつも部活後4人で過ごしていた。

白樺湖での出会いから夏の京都に舞台が移りまたその5人で大文字焼きを見ることになる。

to be continued

#終活#アラ還#楽しい生き方#ポジティブに

マンドリン部で部長になり

演奏旅行とレコードを作ろうとその頃からビジョンを決めてみんなで頑張ってた✨

結局はレコードのみでしたがいい思いでです😉

一年の終わりから同じ部活の郷ひろみと言われた男性とお付き合いが始まるが部活ないだったので彼が部活を卒業するまでは内緒🙊

引退してうちの実家に遊びに来たこともある
結婚を前提にということだったが相手のおうちはお花の先生🌸

苦労すると親から言われおつきあいだけで嫁ぐことはなかった。
まだまだ親の言うことを聞いてた(笑)

短大だったので一番仲良しの友達は卒業
私はそのままお花の道、次の段階に進んだ。
お花やお茶の先生目指して🎵

to be continued

#終活#アラ還#楽しい生き方#ポジティブに

島を離れやっと自由な生活

とはいえ姉が西宮に住んでたのでしばらくは一緒に住む。

姉はその当時では珍しかった15歳上彼がいた。

それも大学からのお付き合い、

親にはまだ伝えてない。当然私も内緒🙊

西宮から大阪にでて京都まで通う。

部活は何に入ろう?少林寺拳法部とマンドリン部に当面席をおく。

どちらかというとクラシックより体動かす方が先だけど友達に誘われ結局マンドリン一本に🎵

マンドリンは今日とは活発で合同演奏会もあり他校とも交流があった🎵

みんなが合コンとかしてだけど通学と練習で結局1度もやったことがない(残念)


to be continued

#終活#アラ還#楽しい生き方#ポジティブに

今日は母の日、毎年同じようにありがとう、長生きしてねといえることに感謝💕

今年90歳になる母にあと何回この言葉がいえるだろうか?

18歳まで島で育ち、将来何になりたいかと考えたとき、教育熱心な親は当然大学進学を進めた。私は手に職をつけたいと思っていたから特に魅力はなかった。

姉は英文科専攻していたのであなたは薬剤師になりなさいと親は言う。しかし数学はあまり好きではなかった(笑)

本当は人を綺麗にして喜んでもらえる美容師や困ってる人や大変な人をお世話する看護しになりたかったけどそんな仕事は❌と却下された。

小さい頃から夢は花嫁さん👰って言っていたので専業主婦は魅力があるが手に職をつけてと考えていた。

体育の先生も❌じゃあ国語の先生はと国文科を
本当は大学じゃなく専門学校でジュエリーのデザイナーも面白そうと😁ただ親に逆らうこともできず受験短大と四大合格するが短大の方はいろんな資格がとれるとそちらを選んだ😉親は四大を進めたけどここは自分を通した。

こうして島から離れ一人の生活が始まる。

to be continued

#終活#アラ還#楽しい生き方#ポジティブに


しつけは祖母、教育は母と分担していた。

教育熱心だった母は姉を岡山の一貫校にいれるため
受験をし姉もそれに答えて下宿生活が始まった。島では始めてかもしれない。

私はというとF家の恥にならないようおとなしく大人のいうことを聞き自慢の子供を演じた。お客様が来ると三つ指ついてご挨拶をする子供。それで大人が喜べばよし❤️
父が帰るとわがまま言わないんだよと言われて育った。当然姉がたまに帰っても同じいつも他人の釜の飯を食べて苦労してるんだからわがまま言わないんだよ。

小さい頃からわがままを言った覚えがない。ただ内心は違っていた。

島のこの時期、蜜柑の花の香りが懐かしい🎵

to be continued

潜在意識は7歳までにつくられる✨

大人になっての思考は親の教育や7歳までにつくられるプラス昔からの記憶😉

そんなことは脳科学の勉強を📖👓️するまで全く知らなかった✨

と言うわけでF家(うちの家族を今後この名前で表記しよう)

前にも書いたようにうちは祖父母がいた。親たちよりも煙たかったかも?😣

戦争経験者なのでお砂糖はとても貴重なもの、その当時お菓子もなかったからね。祖父👴が砂糖をなめててよく祖母👵に叱られてたなぁ(笑)

祖父はとても静かな人で仕事も几帳面、読み終わった新聞を綺麗に積み上げていたっけ😁キセルを吸っててその時が一番幸せそうだった❤️
そんな姿見てたばこって美味しいのかなと試したことがあるが大人の味で私には無縁😆

祖母はプライドの高い人でテレビもあの辺りで一番早く近所の人が見にきていたらしい📺️

でも近所の人と付き合うことはせずF家とは格が違うと😆島にいるときは私もそう思っていたかもしれない。なに不自由なくお嬢様と欲しいものはすぐ手に入る。友達からもそう思われていたみたい。でも実際島をでると普通の育ちだとわかる❗

そんな祖母👵だが健康のためにやってる畑に行って帰りが遅い祖父👴が心配なのかよく見に行かされた。優しい面もあったみたい。

私の友達が遊びにきたら17時になると「早く帰れ」と促しにきた。それは未だに言われる。「怖かったよなぁ😅」でもこれも教育だったように思う。早く帰りなさいと😃
昔はご飯だよ帰ってきなさいという親の声もよく聞かれたなぁ夕飯時だよ😉子供達はその声でそれぞれのうちに帰っていった。

自分が親になったとき、同じように声をかけてた。でも子供達の友達は大丈夫‼️といい、相手の親にいってもあまり厳しくなかった。だんだんご飯食べていくって声かけて一緒に食べることもあったっけ
時代は変わった。子供を育てながら自分価値観を上書きしていった記憶がある。専業主婦が少なくなった背景がある。

こういう風にして、家庭で教育されてたことが自分の価値観、思考に繋がっているのでその度にアップデートしながら生きてきた✨

to be continued